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モラトリアム青年が何かを見つける物語 僕と僕の周りのすべて

科学の脱芸術 国立文系学部の見直し問題に触れつつ

原始、科学は芸術であった。

天才と呼ばれる一人の人物の手によって新たな発明、発見は成され、
その天才は歴史上の偉人として語り継がれる。

莫大な数の失敗の中にほんの一握りの成功者が現れ、莫大な富を築く。


しかしながら、成功しなかった者の残した結果なくして科学の発展はなかった。
名前の残っていない科学者たちも間違いなく科学の一部であるのだ。

 

芸術とは

バレエでトップダンサーと呼ばれるような人はほんの一握りだ。
それだったら、トップダンサーにはなれずに教育者になる者、
他の仕事もしながらバックダンサーとして生きていく者、
はたまた、途中でその道を諦めた者。

そういった人たちは無意味であるのか?

 

否。そういった人たちの営みが無くしてはトップダンサーは現れないし、バレエという芸術は成り立たない。

 

金がなぜ高価なのかと言えばそれは見つけるのが大変だからだ。
多くの砂利をかき分けやっと見つかる一粒の金。
であるからそれは貴重であり美しい輝きをもつ。

 

成功したり、名を残せずに終わったり、挫折したり、そういった形態そのものが芸術なのだ。

 

芸術と科学

科学は芸術として側面を相当に持っている。
お金に余裕のある貴族が私財を投じて実を結ぶか分からないことを研究してみる。
成功したらもちろん名が残るし、失敗したらそれはそれで将来何かの役に立つかもしれない。
そしてどちらも文化cultureである。
文化というのは生活の余裕がなくして生まれない。
明日食べるものにも困ってる人は「どうしてリンゴは木から落ちるのか」とか「戦争の怒りを絵にしよう」だとか考えない。
(ちなみにagriculture(農業)はagro(土壌)-culture(文化の)から由来する。)

 

しかし、現代、科学と芸術は同じようには考えられないし、研究者と芸術家は全く異なったイメージで捉えられる。

科学者と芸術家の肖像を見てもわかるだろう。

音楽家           科学者

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楽家           科学者

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今や科学者()が割烹着をきただけで話題になる時代なのだから。
科学者と芸術家とはずいぶん距離ができている。

 

科学の脱芸術

かつて、科学が芸術でありえたのは人間一人の生涯と財産で着想から発表までが可能だった時代だったからだ。

今や一つの発明をなすのにも大勢の労力と結果が必要になっている。

 

今日、科学は進歩し複雑化してきた。
実験に必要な器具も非常に複雑なものになってきた。
芸術、と呼ぶにはあまりにカネがかかりすぎる時代に突入してしまったのだ。

 

そこで研究者は企業や国といった力を借りざるを得なくなった。

これによって科学はどう変わったのか。

 

国立文系学部の見直し問題に触れつつ考えてみる。

 

企業の研究と国の研究

前述したとおり、科学にはむちゃくちゃに金がかかる。

むちゃくちゃなお金がいるから科学者は企業か国に所属し資金援助をうける。

 

大学において企業は私立大学、国は国公立大学だと考えればよい。

 

企業に属した場合、研究結果には利益につながることが求められる。

するとどうしてもマグロの養殖みたいなある程度「役に立ちそうな」研究でないとお金を出してもらえない。

 

平和なこの世の中、すぐには役に立たなそうな理論系の研究(宇宙は何で出来ているかだとか)は国がリードしなければいけない。

 

そうすると国立理系大学にお金を使いたいから比較的お金のかからない文系の研究は私立に任せるよ。ってなってもいいんじゃないかな。

 

実際の報道ではこういった理由は原因とはされていないが個人的にはこういった理由からも国立文系は減らしていってもよいと思う。

 

また、思いつくことがあれば追記したいです。

ひとまず。終わりです。